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<科学革命 ー 機械になった自然>

​機械論的自然観と家父長制

ヨーロッパでは16世紀まで、自然を生命にあふれた霊的なものと見なすキリスト教による「有機体説」が生きていました。宇宙は、霊魂から精神そして肉体(物質)へと連続する階層構造をもつ有機体(→ ヒエラルキー的二元論の形成)であり、女神である「世界霊魂」が自然に生命と形を与えると考えられていたのです。

 

このような「神性をもつ自然」や「地球は生命を育む慈母」と見なす考えは、人間による自然の搾取を抑制する役割を果たしていたといいます

 

一方で、ルネサンス期にはヘレニズム哲学が再評価され、学者たちは古代ギリシアの自然哲学者と同様に、神や聖書ではなく人間の理性によって宇宙を理解しようとする、いわば近代の「脱魔術」へと向かいます。

 

なかでもルネサンス期にブームとなったエピキュロスの思想は、原子論的唯物論(物質は無秩序な微粒子の集まりに過ぎないとする考え方)を復活させます。そして、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ベーコンなどを経て、17世紀のデカルトが、自然はそれ自体では何もできず、外からの作用によって動く純粋な機械であるという「機械論的自然観」を完成させるのです。

 

このように自然の見方を有機的秩序をもつ「生命体」から、無秩序で「生命のない」機械へと変えたのが「科学革命」でした。

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普遍性・細分化・合理性という男性性
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16~17世紀の科学者たちは、宇宙は絶対的な数学的法則に支配されていると考えていました。このため、機械的な実験によって自然現象を定量的つまり数学的に定式化しようと努めたのです。

 

けれども実験の結果を数量的に得るには、そもそも実験の対象を「計測・計量できるもの」に絞る必要がありました。こうして近代科学は物質の量的な特性にだけ注目することになるのです。そして数量化・定式化された自然は、機械的なものとして定着していきます。

 

「機械論的自然観」による科学は、問題を機械のパーツのように構成要素に分解し、その各部分を個々に解明しようとする「要素還元主義」を採りました。個々の実験によって得られた結果と、それらの因果的(数式的)結びつきによって自然現象を合理的に理解しようとする手法は、「細分化」「理性」「合理性」という男性性です。システム理論家のフリッチョフ・カプラによれば、数量に基づいた分析的な態度もまた男性性と言えます(→ 女性性・男性性の定義)

 

個々の現象が互いに作用し合い(女性性)、数式では導けない結果をもたらす可能性があるため包括的(女性性)な考察が必要であることは顧みられませんでした。また再現できない(普遍的でない)ことや、数量化できないもの(感覚や匂い、意識や感情など)も科学は無視しました。

力・征服・支配という男性性

実験の結果を積み重ね、そこから普遍的な法則を見出すという「帰納法」を推進し、近代科学の父とも呼ばれるフランシス・ベーコン(1561~1626)は、科学の目的を「自然の征服・支配」であるとしました。

 

ベーコンが述べた「知は力なり」が意味するところは、(機械的な装置を使った)実験によって自然の法則を見つけ出し、その「知」によって自然を征服し、人間の利益のために奉仕させるということでした。

 

ベーコンやその後継者たちは自らの「科学的」手法を表現する時に、「自然を拷問にかけ、彼女の秘密をあばき出す」「物質は売春婦。男の手と技巧によってしめつけ、そのあがきや努力を無為にする」「女体を征服するように自然を支配する」などの比喩を好んで用いました。

 

このように実験という拷問で解剖され、支配されるべき女というイメージに自然を変えることで、男による天然資源の開発が正当化されました。ルネサンス期の「自然の中の女性的神性」や「生命をはぐくむ母なる地球」というイメージがもっていた抑止力はなくなってしまったのです。

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精神と物質の分離(心身二元論)
機械論的世界観を哲学として完成させ、近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルト(1596~1650)は、自然や動物を純粋な機械と見なす一方で、人間にだけは魂があり、それによって神とつながっているとしました。それゆえデカルトも、特別な存在である人間は自然の主人公で所有者のようになることができると述べています。

 

デカルトによれば、人間は「機械としての身体に魂が結びついた存在」でした。人間の「魂(精神)」と「身体(物質)」に連続性はなく、まったくの別物としたこの考えが「心身二元論」です。これは「自」とは関係なく「他」を分析するという「客観性」という態度を近代科学に持ち込みます。

 

人間存在を自然と切り離し、その優越性を主張したデカルトですが、それでもまだ人間は神という存在とつながっていました。けれども18世紀に生きた哲学者カントはデカルトの二元論から神と霊性を取り除きます。

 

カント(1724~1804)は、物質界(他者)の物事は人の「心」によって認識されるのであって、そこに神とつながる魂などないとしたのです。

 

そして科学による自然現象の解明が進むにつれ「全能」の科学が神に取って代わるようになっていきます。

ルネ・デカルト
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デカルトの機械論的自然観は17世紀後半にアイザック・ニュートンによって具体的な数式で補強され、ゆるぎないものとなります。「デカルト・ニュートン・パラダイム」と呼ばれるこの機械論科学は男性性の意識が生み出したものでした。

 

「絶対的な空間と時間の存在、物質の根源は固い微粒子、厳密に因果関係で成り立つ自然現象、自然の客観的描写」という概念を基礎とするこのパラダイムは、人類を「脱魔術」へと導きました。人類は物質を操作する大きな知恵と力を得たのです。現在の私たちの物質的な繁栄はこのパラダイムによってもたらされたのです。

 

ただしこのパラダイムは20世紀半ばに「相対性理論」と「量子力学」によって完全に否定されます。物質界はもっと流動的な波動の世界だということがわかってきたのです。また現在の遺伝子、DNA、ゲノムなどの研究は、自然や生命が厳密な因果関係で「組み立てられた機械」ではなく、他との複雑な関係性の中でさまざまな形に自己組織化する能力をもつ「自立的・能動的」存在だということを明らかにしています。ただそれでもなお「デカルト・ニュートン・パラダイム」が人々の心に根深く浸透しているところに、現在の様々な問題があります。

イマヌエル・カント
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